桶狭間にて今川義元が戦死した後、土地の人々が砦を築き、地名より堀川城となった。城址は推定地とされ、都田川の流れも変わり河口の北側、田園のなかに首塚のみ残る。
2021年5月23日
入口
城址碑
首塚
案内文
永禄11年(1568)、徳川家康は遠江侵攻にあたって井伊谷三人衆らを調略し、彼らの本領を安堵しました。これにより家康は井伊谷から引馬城へと軍を進め遠江に拠点を得ました。ところが今川配下の土豪たちは堀川城に立て籠もって抵抗しました。翌永禄12年(1569)徳川家康の遠江侵攻にも最も抵抗した城址です。当時の浜名湖の護岸にあって、水道の守りを固めた砦でたと思われます。形や場所ははっきりしません。ここで家康は敗残兵を撫で斬りとし、探し出して気賀の門に晒し首にしています。城兵は全滅となりましたが、一部の兵が対岸の堀江城に籠もり落城の情報を伝え、堀江城は家康との和睦を選択します。同じ今川氏に支えた遠江の人々には、それぞれにとって大きな選択の年となりました。
なお井伊谷三人衆は家康の命で井伊直政につきますが、やがてそれぞれ独立していきます。
堀川城の戦い
永禄3年今川義元が織田信長に敗れ、今川氏真が家督を継いだころから、今川家の支配していた遠江は動揺します。今川家の弱体化を見越した甲斐の武田信玄、尾張の織田信長、三河の徳川家康らが遠江駿河への進出を狙って動き出しました。
尾張、三河、信濃に近い浜名湖北岸の地域は街道や水道交通の要衝として双方から重要視されました。この地の武将や住民はこれまで通り今川氏に付くか信長家康に付くか選択を迫られていきました。
永禄11年(1568年)11月、井伊谷周辺を味方につけた家康が遠江へ侵攻します。気賀周辺の住民は氏真に付いて家康に抵抗しました。駿府から敗走した氏真が立て籠もった掛川城攻めが長引き、武田軍の遠江侵入への動きが伝わる中、気賀周辺の反徳川の動きも活発でした。こうした状況のなか家康は堀川城の兵の目を避けて一旦三河へ戻っています。体制を立て直して再度遠江へ侵攻した家康は、堀川城を徹底的に攻め、立て籠もった常平や住民を全滅させ、落城のあとも敗残兵を探し出して処罰しています。
家康の生涯における戦の中でも、最も残酷な戦場となりました。
基本情報
城郭構造 平城
築城主 斎藤為吉
遺構 城址碑
築城年 1568年
廃城年 1569年
地図