日本唯一の円郭式平城。本丸を中心に同心円状に堀を巡らす稀有な構造を持つ。武田氏流城郭の丸馬出しが計6箇所設けられているのも特徴。また1616年1月に家康がこの地で鯛の天ぷらにあたり食中毒で死んだとされる説があまりにも有名。
写真の撮影日 2014年9月3日 午後
本丸跡地
移築櫓
田中城の歴史は今から500年ほど前、この土地の土豪一色氏がその居館を拡大したのに始まると言われている。現在市立西益津小学校の建つ位置がかつての本丸で、城は4重の堀に囲まれた、直径約600mの円形をしていた。江戸時代にはここに田中藩が置かれて、志太郡、益津郡の村々を治めていた。

田中城下屋敷は六間川を挟んで田中城の南東端に接した位置にある。ここは一色氏やその後裔の古沢氏の居館跡だとも言われているが、江戸時代後期には城主の別荘(下屋敷)が置かれ、築山、泉水、茶室なとどを設けて四季の草花を楽しんだ。
櫓内からの景色
信玄、信長、秀吉、家康も宿泊
田中城は東海道の要衝にあるため、戦国大名にとって戦略上重要な拠点として注目されていた。永禄13年(1570年)正月末、武田信玄は今川氏が守る藤枝徳一色城を攻め落とし田中城と名を改めた。信玄は2月中旬まで田中城に在城している。それから12年あとの天正10年(1582年)4月、武田家滅亡を見届けた織田信長は、甲府から安土城に帰る途中の14日、田中城で一泊している。豊臣秀吉は、小田原北条氏を討伐に向う途中、天正18年(1590年)3月18日に田中城に泊まっている。
一方、徳川家康は天正3年(1575年)6月から7年間に渡って武田氏が守る田中城を攻め続け、ようやく天正10年3月、田中城を落とした。その後、慶長12年(1607年)駿府に隠居した家康は駿府城の修築を行ったが、その工事期間中は田中城に滞在していた。家康は鷹狩のために何回も藤枝を訪れ、そのたびに田中城に宿泊している。最後の鷹狩になったのが元和2年(1616年)正月21日のことで、家康は駿府城で朝食に鯛の天ぷらを食べてから藤枝に出発。鷹狩りをしたあと、田中城で就寝中に突然腹痛が襲い、これをきっかけに病にふし、4月17日に駿府城で亡くなった。
三日月堀
三日月堀というのは、正式には馬出曲輪といい、甲州流築城法のひとつである。諏訪原城、小山城、江尻城など武田氏の築いた城郭にはみんな馬出曲輪が備え付けられている。
馬出曲輪とは城門の外側に三日月形の堀とその背後に土居を設けて敵が城内に侵入するのを防ぐ為の備えである。従って三日月堀だけが単独で存在するものではなく、堀と土塁、その奥の広場、枡形を持った城門の三つが一組になって城の守りを固めていたのである。
大手二の門跡
二之堀
大手一の門跡
家老屋敷跡 三の丸土塁
田中城は円形の城として知られているが、三ノ丸は土塁の6ヶ所が外に向かって突出した亀の甲羅の形をしているので別名『亀城』もしくは『亀甲城』と呼ばれていた。
田中城の侍屋敷は円形の田中城内と、藤枝宿との間の大手地域、南側の新宿と呼ばれる地域にもあったが、その中でも三の丸は家老クラスの屋敷地となっていた。
基本情報
城郭構造 円郭式平城
築城主 今川氏
遺構 石垣、水堀、移築櫓
主な城主 今川氏、武田氏、本多氏
地図
パンフレット
田中城模型