今川への忠節をつくした山内通泰が築いたとされる。1569年、徳川の榊原康政、大須賀康高らにして攻め立てられ、この戦いで山内通泰以下主従もろとも全員が討死した。
撮影日 2021年5月17日
登城口
谷堀
腰曲輪
本曲輪
東土塁
石碑
眺望
二の曲輪
看板
飯田城主山内氏は備後国を本拠とし、1281年に飯田荘上郷内の筥崎、西俣、加保村などの地頭を安堵された山内道茂を祖とし、山内道弘、道秀のころに遠江に赴き天方城を築いたとされている。
飯田城の構築は1400年頃とされ、掛川誌稿にも記されている。
1569年6月、今川氏の被官から離れることのなかった飯田城主山内通泰は徳川家康の遠江侵攻によって、榊原康正、大須賀康高らによって悉く斬獲され悲惨な最期をとげ落城。千人塚に葬られた。

本城の縄張りは自然の谷地形を東限とし、西端城に構築され東西100m南北150mの規模の丘城である。
場内は三段の大小平場で構成され、東西に土塁を囲む上二段が主曲輪で、南の土塁の内側が二の曲輪である。
北東最上部が物見曲輪、北西の尾根には二重の堀切を施し、全体として北方に備える遺構である。
大手口は南西の尾根でこの西下前方を『陣屋敷』(鈴木彦兵衛屋敷)といい方壱丁の居館跡と推測される。
基本情報
城郭構造 丘城
主な城主 山内氏
遺構 曲輪、土塁、堀
指定文化財 町指定史跡
築城年 1545年
地図